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<学問>「学者の腐ったような奴」

 ここでよく取り上げるウチダ先生のブログで、またまた気になるエントリが。

内田樹の研究室「知識についての知識について」


 まあ、言っていることに納得できなくもないのだが、気になったのが「学者の腐ったような奴」というフレーズ。この部分については、直接、引用してみよう。


20年ほど前の学会では、学会発表のあとの質疑応答で「重箱の隅をつつくような」質問をして、発表者が答えられないと、「『こんなこと』も知らない人間にこの論件について語る資格はない」というかたちで切り捨てるタイプの学者がときどきいた。
私は彼らのことをひそかに「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいた。
「学会」とかいうと、「そういう突っ込みもありでしょ・・・」と訳知り顔をされる方がいるかも知れないが、そういうものではないです。
(中略)
「重箱の隅」的知識にこだわる学者は「自分の知ってる知識はすべて万人もまたこれを知っているべきものであり、自分の知らない知識は万人にとって知る必要のないものである」ということを不当前提している。
(中略)
トリヴィアルな知識は豊富であるが、自分の知識についての評価ができない人々を私は「学者の腐ったようなやつ」とカテゴライズし、まとめて火曜日の生ゴミの日に出していたのである。

 ウチダ先生が具体的にどのような質疑応答を指して言っているのかわからないので、ピントが外れている可能性が高いのだが、まあ、とりあえず以下のようなことを考えるわけだ。

 まず、そもそも学問って何ぞや、という話から。ニュートンの有名な言葉に「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」というものがある。もちろん、これは比喩であって、要するにニュートンの学問的な業績というは、先人たちの努力の上に成り立っているということだ。

 実際、学問とはそういう既存の研究のうえに積み重ねられていくものだ。だから、先人がどのようなことを考え、研究してきたのかを知ることは非常に大事なことだ。そういう作業がないと、ずっと前から言われたりしていることを、さも自分の「新発見」であるかのごとく誤認してしまうことになるし、その分だけ、無駄な労力が多くなる。学術論文を書くさい、既存研究の整理が必要なのは、そのためだ。

 けれども、既存研究の整理というやつはかなり大変だ。特にポピュラーな分野であればあるほど、読まねばならない既存研究は多くなる。じっさい、僕が論文を書くときにも、かなりの時間をそれでとられる。

 ところで、世の中には、学術論文と一見すると似ているようで、実は性格がぜんぜん違うものがある。アカデミックなエッセイとでも呼ぶべきものだ。フーコーでも、レヴィナスでも、レヴィ=ストロースでも何でもよいのだが、学問的な概念や分析装置を使って、世の中をさくっと切るというタイプの文章である。

 こういうタイプの文章のばあい、学問的な意味での新しさはまったく必要ない。読む人を面白がらせさえすればよいのであり、学問的な重要性はむしろ低い。実際、世の中に溢れている新書の類の多くは、このカテゴリーに属している(もちろん、アカデミックな意味でも重要な新書もある)。

 ここで言っておくと、僕はべつにアカデミックなエッセイの意義を否定しているわけではない。学問の入門にはうってつけだし、自分がぜんぜん知らない分野の知識を得られるという意味では重宝する。

 ただし、そういうアカデミックなエッセイのスタイルと、学術論文あるいは発表のスタイルはやはり区別されねばならないと思う。そして、繰り返しになるが、学問をやる場合、先人の業績の緻密な検証は絶対的に必要な作業だ。それだけが、「巨人の肩に乗る」ことを可能にするのだから。

 ここでようやく、ウチダ先生の話に戻るわけだが、そういう既存研究に関する知識が、門外漢の人から見れば、どうしても「トリヴィアル」なものに見える可能性は否定できない。もちろん、ウチダ先生が「学者の腐ったような奴」と呼ぶ人物が、本当にしょうもない知識をただひけらかしたいだけだった可能性はあるのだが(実際、そういう人が学会にいることは確かだ)。

 僕がなんでわざわざこんなことを書いているのかといえば、既存研究の地道な検証をすっ飛ばして、アカデミックなエッセイ風の学会報告をしたり、論文を書いちゃう人をときどき目にするからだ。そういう人を見ると、「なんで○○の研究に触れないのか」とか、「××という概念の背景をどこまで押さえているのか」などと突っ込みたくもなる。それは別に自分の知識をひけらかしたいとかそういうわけではなくて、既存研究をレビューすることの大切さを伝えたいという切なる願いなのだ。

 というわけで僕は、学問をやるのであれば、「トリヴィアル」に見える既存研究のレビューをきちんとやることを求めたい。たとえ、「学者の腐った奴」と呼ばれようとも。

 って、何か匂いますか。
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  by seutaro | 2008-09-28 00:21 | 学問

<政治・社会>子どもの事件

 またも、子どもが犠牲となる事件があった。福岡の事件に続いて、今度は千葉で5歳の女の子が命を絶たれてしまった。

 子どもが出来て、変わったことの一つは、こうした事件に接したときの何とも言えない嫌な感じだろう。自分の子どもがもし同じような目に遭わされたら、僕や連れ合いの目の届かないところで、苦しんでいる自分の子どもの姿を想像しただけで、体が熱くなる。

 もちろん、統計的に見れば、子どもが犠牲になる事件が増えていないことはわかる。たとえば、下記のサイトのデータが参考になるだろう。

子どもの犯罪被害データベース
http://kodomo.s58.xrea.com/

 子どもをターゲットにした犯罪は増えてていない。だが、「だから安心してよし」と言うのは、ちょっと想像力を欠いた物言いではないだろうか。自分にもっとも近しい人が被害者になる不安というのは、数字で納得させられるものではないのだ。自分の子どもがターゲットになる可能性は、決して「ゼロ」ではないのだから。

 だからといって、そういう不安を煽ることを正当化するわけでもない。不安に苛まれるなかでの判断は、妥当なものではないことが多いからだ。

 ともかく、こういう痛ましい事件が起きると、どうしてもいろいろな騒ぎが起こる。だが、あーだこーだ言うまえにまず我々がなすべきは、失われた幼い命の冥福をただ静かに祈ることではないだろうか。
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  by seutaro | 2008-09-22 00:30 | 政治・社会

<政治・社会>次の総理は・・・

 盛り上がっているようで、実はまったく盛り上がっていないと言われる総裁選。実際には、出来レースであって、次の総理は麻生さんで決まりなんだろう。まあ、麻生さんの推薦人の顔ぶれを見ると、壮絶に萎えるわけだが。

 なお、いちおう、自民党内でも政策論争らしきものはあって、その構図を解説したものとしては、以下のブログのエントリが非常にわかりやすい。

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20080908/p1

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  by seutaro | 2008-09-12 01:55 | 政治・社会

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