<政治・社会>航空幕僚長のレポート

 時期を逸しての話題であるが、田母神航空幕僚長のレポートに関する問題について。
 そもそも、既存研究の整理や引用箇所の明示など、論文の基本的なマナーができていないあの文章を「論文」と呼ぶのはかなり抵抗がある。学部生の卒業論文で「あれ」が出てきたら、叱責するだろう。というわけで、あれをここではレポートと呼ぶ。

 しかしだ、以前のエントリにも書いたのだが、この手の歴史観はある種の「自虐史観」であるとしか思えない。この歴史観から浮かび上がってくる大日本帝国というのは、なんと愚かで、主体性のない国なのだろうか。戦略性のカケラもなく、ただただ他国の謀略に引っかかるだけの存在である。「お人よし」なんてのは、国際政治上では誉め言葉ではないだろう。ましてや、「航空幕僚長」の立場からすれば。

 そんでもって、これも前に書いたことだが、植民地の統治に関する記述について気になることがある。ここは本文を引用しておこう。

戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。(改行)我 が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。
(出典)http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

 要するに、この人は圧政から解放され、生活水準さえ向上させてくれるのなら、民族の独立とか自決などは二次的な問題なのだと考えているのだろう。

 仮に日本の経済がこのままガタガタになって、失業者が溢れ、さらになぜか軍事独裁政権のもと圧政が敷かれるようになったばあい、この人は日本を永続的に他国の一部にしてもらうことで圧政を打破し、生活水準を向上させることを選択するのだろうか。

 要するに、こういう「生活水準を上げてやったのだから、ガタガタ言うな」的発想の根底には、ある種の拝金主義がある。「生活水準」というカネの論理に立脚できるなら、他の民族の尊厳を踏みにじってもよいとの発想だ。こうした札束で他者の頬をひっぱたくような言説が、抵抗なく保守論壇で受け入れられているとするなら、そこには深刻な精神的堕落の兆候が見出されるのではないだろうか。

 これも前に書いたことだが、そもそも戦前の日本において、民族派と呼ばれる人たちのなかにも、朝鮮の独立運動に同情を示す人たちがいた。自分の民族を愛するがゆえに、他者のナショナリズムにも理解を示すことが出来たということなのだろう。彼らがいまの拝金主義的ナショナリストの姿を見たら、嘆き悲しむのではないだろうか。

 まあ、そもそもナショナリストではない僕がこういうことを書くのも何なのだが…。 
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  # by seutaro | 2008-11-06 02:48 | 政治・社会

<ネタ>子供の数だけ親に投票権を

 先日、いつものように喫茶店で読書をしていると、こんな会話が耳に入ってきた。

 「年金をもらいはじめて15年。もう元は取ったかな。まあ、あと20年ぐらい生きて、しっかり貰わないと。ガッハッハ」

 まあ、こういうことはあまり言いたくはないのだが、正直に言って、少々腹立たしかった。我々の世代の年金なんてどうなるやらまったくわからないのに、現役世代の負担になることを胸を張って公言している・・・。もちろん、早く死ねとか言うつもりは毛頭ないのだが、もう少し、申し訳なさそうな態度でも良いのではないかとも思うのである。

 実際、年金や社会保障の負担で世代間格差があるのは良く知られている。ネットで調べていると、こんなページもあった。

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 そんなことを考えていたところ、ここで、今週の『東洋経済』に「子供の数だけ親に投票権を」というコラムが掲載されていることを知った。もうすぐ2児の父となる身としては、なかなかに魅力的な提案ではある。老人パワーだけで国を動かされてなるものか、という問題意識は痛切にわかる。

 それにしても、だ。そのばあい、たとえば子どもが1人の家庭はどうなるのだろうか。

夫「ついに我が家にも投票権が3つやってきたぞ。この日をどれだけ待ったことか…」

妻「ホントよね。これで現役世代の声が少しは政治に反映されるようになるのかしら」

夫「そりゃ、なるさ。我が家だけで、○○党に2票は入るんだしな」

妻「ちょっと待って。私は××党に入れるわよ」

夫「いやだから、俺の分と子どもの分で○○党に2票だよ」

妻「なんで子どもの分の投票先をあなたが決めるわけ?」

夫「えっ、いや、そりゃ、そうだろ。君はテレビでバラエティばっか見てるじゃないか。俺はニュースもちゃんと見てるし、政治に関心あるし・・・」

妻「バラエティばっか見てちゃ駄目なわけ!?

夫「いや、ほら、む、昔からこういうことは男が決めるって相場が決まってるんだよ」

妻「どこのどいつがそれを決めたのよ!貴方って、意外と古い考えなのね。ていうか、それって男尊女卑?」

夫「いや、だからさ、ほら、向き不向きとかあるじゃないかさ、男と女で」

妻「なに、女は馬鹿だから選挙のことなんか、考えるなってこと?そんな人と一緒に暮らしていけません!!!」

夫「ぐあああああああああああああ」

というような家庭内不和が起こらないよう、子どもの分の投票権の行使には慎重を期したいものである。
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  # by seutaro | 2008-10-20 23:49 | ネタ

<学問>「学者の腐ったような奴」

 ここでよく取り上げるウチダ先生のブログで、またまた気になるエントリが。

内田樹の研究室「知識についての知識について」


 まあ、言っていることに納得できなくもないのだが、気になったのが「学者の腐ったような奴」というフレーズ。この部分については、直接、引用してみよう。


20年ほど前の学会では、学会発表のあとの質疑応答で「重箱の隅をつつくような」質問をして、発表者が答えられないと、「『こんなこと』も知らない人間にこの論件について語る資格はない」というかたちで切り捨てるタイプの学者がときどきいた。
私は彼らのことをひそかに「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいた。
「学会」とかいうと、「そういう突っ込みもありでしょ・・・」と訳知り顔をされる方がいるかも知れないが、そういうものではないです。
(中略)
「重箱の隅」的知識にこだわる学者は「自分の知ってる知識はすべて万人もまたこれを知っているべきものであり、自分の知らない知識は万人にとって知る必要のないものである」ということを不当前提している。
(中略)
トリヴィアルな知識は豊富であるが、自分の知識についての評価ができない人々を私は「学者の腐ったようなやつ」とカテゴライズし、まとめて火曜日の生ゴミの日に出していたのである。

 ウチダ先生が具体的にどのような質疑応答を指して言っているのかわからないので、ピントが外れている可能性が高いのだが、まあ、とりあえず以下のようなことを考えるわけだ。

 まず、そもそも学問って何ぞや、という話から。ニュートンの有名な言葉に「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」というものがある。もちろん、これは比喩であって、要するにニュートンの学問的な業績というは、先人たちの努力の上に成り立っているということだ。

 実際、学問とはそういう既存の研究のうえに積み重ねられていくものだ。だから、先人がどのようなことを考え、研究してきたのかを知ることは非常に大事なことだ。そういう作業がないと、ずっと前から言われたりしていることを、さも自分の「新発見」であるかのごとく誤認してしまうことになるし、その分だけ、無駄な労力が多くなる。学術論文を書くさい、既存研究の整理が必要なのは、そのためだ。

 けれども、既存研究の整理というやつはかなり大変だ。特にポピュラーな分野であればあるほど、読まねばならない既存研究は多くなる。じっさい、僕が論文を書くときにも、かなりの時間をそれでとられる。

 ところで、世の中には、学術論文と一見すると似ているようで、実は性格がぜんぜん違うものがある。アカデミックなエッセイとでも呼ぶべきものだ。フーコーでも、レヴィナスでも、レヴィ=ストロースでも何でもよいのだが、学問的な概念や分析装置を使って、世の中をさくっと切るというタイプの文章である。

 こういうタイプの文章のばあい、学問的な意味での新しさはまったく必要ない。読む人を面白がらせさえすればよいのであり、学問的な重要性はむしろ低い。実際、世の中に溢れている新書の類の多くは、このカテゴリーに属している(もちろん、アカデミックな意味でも重要な新書もある)。

 ここで言っておくと、僕はべつにアカデミックなエッセイの意義を否定しているわけではない。学問の入門にはうってつけだし、自分がぜんぜん知らない分野の知識を得られるという意味では重宝する。

 ただし、そういうアカデミックなエッセイのスタイルと、学術論文あるいは発表のスタイルはやはり区別されねばならないと思う。そして、繰り返しになるが、学問をやる場合、先人の業績の緻密な検証は絶対的に必要な作業だ。それだけが、「巨人の肩に乗る」ことを可能にするのだから。

 ここでようやく、ウチダ先生の話に戻るわけだが、そういう既存研究に関する知識が、門外漢の人から見れば、どうしても「トリヴィアル」なものに見える可能性は否定できない。もちろん、ウチダ先生が「学者の腐ったような奴」と呼ぶ人物が、本当にしょうもない知識をただひけらかしたいだけだった可能性はあるのだが(実際、そういう人が学会にいることは確かだ)。

 僕がなんでわざわざこんなことを書いているのかといえば、既存研究の地道な検証をすっ飛ばして、アカデミックなエッセイ風の学会報告をしたり、論文を書いちゃう人をときどき目にするからだ。そういう人を見ると、「なんで○○の研究に触れないのか」とか、「××という概念の背景をどこまで押さえているのか」などと突っ込みたくもなる。それは別に自分の知識をひけらかしたいとかそういうわけではなくて、既存研究をレビューすることの大切さを伝えたいという切なる願いなのだ。

 というわけで僕は、学問をやるのであれば、「トリヴィアル」に見える既存研究のレビューをきちんとやることを求めたい。たとえ、「学者の腐った奴」と呼ばれようとも。

 って、何か匂いますか。
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  # by seutaro | 2008-09-28 00:21 | 学問

<政治・社会>子どもの事件

 またも、子どもが犠牲となる事件があった。福岡の事件に続いて、今度は千葉で5歳の女の子が命を絶たれてしまった。

 子どもが出来て、変わったことの一つは、こうした事件に接したときの何とも言えない嫌な感じだろう。自分の子どもがもし同じような目に遭わされたら、僕や連れ合いの目の届かないところで、苦しんでいる自分の子どもの姿を想像しただけで、体が熱くなる。

 もちろん、統計的に見れば、子どもが犠牲になる事件が増えていないことはわかる。たとえば、下記のサイトのデータが参考になるだろう。

子どもの犯罪被害データベース
http://kodomo.s58.xrea.com/

 子どもをターゲットにした犯罪は増えてていない。だが、「だから安心してよし」と言うのは、ちょっと想像力を欠いた物言いではないだろうか。自分にもっとも近しい人が被害者になる不安というのは、数字で納得させられるものではないのだ。自分の子どもがターゲットになる可能性は、決して「ゼロ」ではないのだから。

 だからといって、そういう不安を煽ることを正当化するわけでもない。不安に苛まれるなかでの判断は、妥当なものではないことが多いからだ。

 ともかく、こういう痛ましい事件が起きると、どうしてもいろいろな騒ぎが起こる。だが、あーだこーだ言うまえにまず我々がなすべきは、失われた幼い命の冥福をただ静かに祈ることではないだろうか。
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  # by seutaro | 2008-09-22 00:30 | 政治・社会

<政治・社会>次の総理は・・・

 盛り上がっているようで、実はまったく盛り上がっていないと言われる総裁選。実際には、出来レースであって、次の総理は麻生さんで決まりなんだろう。まあ、麻生さんの推薦人の顔ぶれを見ると、壮絶に萎えるわけだが。

 なお、いちおう、自民党内でも政策論争らしきものはあって、その構図を解説したものとしては、以下のブログのエントリが非常にわかりやすい。

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20080908/p1

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  # by seutaro | 2008-09-12 01:55 | 政治・社会

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