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<読書>谷村智康『CM化するニッポン』 2

 さて、前回は『CM化するニッポン』の視点と、マルクス主義をバックグラウンドとするメディアの政治経済学の視点が似通っていることを指摘して終わった。
 メディアの政治経済学についてもう少し述べておくと、要するにこれは広告主やメディアの所有者がメディアの内容や運営にどのような影響を及ぼすのかを分析の対象とする。広告によって成り立っているメディアというのは、視聴者によるCMへの接触を広告主に売りつけることによって利益を得ている。つまり、「おたくの商品のCMをこれだけたくさんの人がみてますよ」と示すことでビジネスが成り立っているのであり、新聞の発行部数や番組の視聴率が重視されるのはそのためだ*1。

*1 ただし、欧米では所得の高い層が消費するメディアが存在し(高級紙など)、そうしたメディアは発行部数や視聴率がそれほど良くなくても、スポンサーを集めることができるのだという。『CM化するニッポン』によれば、日本でそれに該当するのは『サンデー・プロジェクト』なのだそうな。

 そして、このような形での利益追求は、様々な点でメディアの姿をゆがめてしまっている。広告を出せるような大資本に迎合するがゆえに、大資本に批判的な番組やニュースを流さなくなる一方、より多くの読者や視聴者を獲得するために大衆迎合的で画一的な番組しか制作されなくなっていく。
 しかも、メディア自体が巨大な産業となっているがゆえに、同じ系列に所属する企業に批判的な情報は流れにくくなる。たとえば、ディズニーはアメリカの三大ネットワークの一つであるABCを所有しているが、このABCがディズニーランドを批判する番組を流すとは考えにくい、といったことが挙げられる。
 以上がメディアの政治経済学の基本的な発想であるが、『CM化するニッポン』にも類似した指摘がいたるところに見られる。たとえば、ライバル企業のCMに出ているタレント(前回のエントリで挙げた妻夫木聡と加藤あい)を一緒に使えないといった「CMしばり」の存在や、広告を番組のなかに埋め込む「プロダクト・プレースメント」により、番組制作がどんどん窮屈になっていることが指摘されている。また、シリアスな社会派番組だと番組の印象が強すぎるためにCMに関心が向きにくく、場合によって購買意欲がそがれる可能性すらあるがゆえに、お手軽なバラエティばかりが放送されるようになってきた可能性も示唆されている。
 ただし、メディアの政治経済学には様々な批判が寄せられていることも述べておく必要があるだろう。それらの批判の主眼は、メディアの内容や運営を単に経済的な側面だけで説明することはできないということにある。つまり、現場の判断、組織内の慣習、イデオロギー等、コンテンツの制作にあたっては様々な社会的要因が働くのであり、メディアのすべてを経済的側面に還元することはできない、というわけだ。
 したがって、『CM化するニッポン』にしても、メディアにおける広告の役割をやや強調しすぎている感があることも否めない。とはいえ、この本の著者によれば、日本の経済的な停滞が、放送局が消費者金融のような良くない筋のCMを大量に流さざるをえない状況を生み出し、プロダクト・プレースメントのような怪しげな手法への依存を強めてきたのだという。つまり、メディアの有り様を決定する様々な諸力のうち、経済的な面の影響力が非常に大きくなってきたというのである。
 マルクス主義の崩壊が決定的となった1990年代以降において、マルクス主義をバックグラウンドとするメディアの政治経済学の妥当性が増してきたのだとすれば、それはそれで皮肉な話ではある。

  by seutaro | 2006-03-01 02:11 | 読書

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