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<政治・社会>子育てのハードル

 前回のエントリでは少子化と社会に蔓延するペシミズムとの関係について述べたのだが、今回も少子化ネタでいってみよう。

 最近、我が家ではマンションを買うことを検討しており、その関係でマンション購入に関するインターネット掲示板なんかをよく眺めている。そこでつくづく思うことは、「集合住宅で子育てをするってのは大変だ」ということだ。

 マンション掲示板でよく見られるのが、「DQS親」という表現である。要するに、部屋のなかで子供が大騒ぎして近隣住民に迷惑をかけているにもかかわらず、ろくに叱りもしない親なんかを指す表現である。そこから、「近頃の親は子供の躾をしていない」といった紋切り型の批判が行われ、さらには「うちの子供は家のなかでは『忍び足』で歩くよう躾けてます」といった発言まで飛び出すわけである。

 しかし、冷静に考えて、昔の子供はみな、自分の家のなかで「忍び足」で歩くように躾けられていたのだろうか?自分の家で、声を押し殺しながら暮らすよう教育されていたのだろうか?

 ここで思い出されるのが、広田照幸氏の『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)という著作である。

 この著作において、広田氏は世間一般のイメージとは異なり、日本人の躾は衰退していない、むしろ現代ほど一般家庭が躾に熱心な時代は存在しないと論じる。広田氏によれば、かつての日本においては、親ではなくむしろ地域社会が子供の面倒を見ていたのであり、親は躾にそれほど熱心ではなかったのだという。

 それでは、なぜ「日本人の躾は衰退した」とのイメージが広がっているのか。それは、要するに、「親による躾」に対する社会の側の期待がものすごく上がったということなのだ。広田氏の表現を借りれば、「礼儀正しく、子どもらしく、勉強好き」という「パーフェクト・チャイルド」を作らんとする試みが社会で共有されていった帰結として、そのような完璧な基準から逸脱する子どもとその親とが目に付くようになってきた・・・ということになるだろう。いうなれば「子育てのハードル」が気づかないうちに、ずいぶんと上がってしまっているのだ。

 そして、そうしたパーフェクト・チャイルドに対する要請は、家族が密集して暮らす集合住宅においてはさらに大きくなる。集合住宅では、礼儀・子どもらしさ・勉強という基準に加えて、「静かに暮らせる」という基準までもが要請されることになるからだ。

 ちなみに、「子どもらしさ」と「静かに暮らせる」という二つの基準を兼ね備えた子どものイメージとは、広場や公園に行けば急にスイッチが入ったかのごとく快活に大声ではしゃぎまわり、自分のマンションに一歩でも足を踏み入れたならばスイッチが切れて大人しく忍び足で歩くというものだ。それほどまでに大人にとって都合のよい存在へと子どもを躾ける努力は、並大抵のものではないだろう。

 さらに言えば、近年の競争や業績を重視する社会風潮は、激しさを増す競争への耐性をも子どもに求める動きへとつながっている。「ゆとり教育」に批判が集中した一因には、「ゆとり」などといって甘やかすのではなく、競争に勝ち抜くことのできる人材を育成すべきだとの主張がある。たとえば、山崎拓氏は自らのサイトで「ゆとり教育」を批判し「学校で競争を経験したことがない若者が卒業後、いきなり競争社会に放り出されて適応できない人もいるでしょう」と述べている。

 なお、こうした競争に勝ち抜くことのできる力というのは、単なる学力とも違うようだ。それは、創造性や重圧に耐える精神の強さといったものであり、流行の言葉を使えば「人間力」ということになるだろう。

 しかし、問題は、そうした競争社会がどのようなものであるのか、ということだ。たとえば、政府の規制改革・民間開放推進会議議長である宮内義彦氏は次のように述べているという(ここからの引用)。

「コア社員の数を鉛筆の芯のように細くする一方、その周りを取り囲む木の部分は成功報酬型の社員、さらにその周りにパートタイマーやアウトソーシングを置く。必要に応じて木の厚さを調整出来るようにしておく・・・鉛筆型の人事戦略」

「コアの社員に不景気だから辞めてほしいとか、景気がいいからきてほしい、と言うようなことはできない。コアの社員には長くいてもらって、非正規社員で(調整できるような)配置をする。この国際競争の中で日本が先進国として生き残るためには、そうした経営努力をしなければならない」

「そもそも安定(雇用の安定も含めて)なんてものはないと思っている。あした安全だという保障はない。安定を企業に求めるのではなく、やはり自分の努力です」

 ここで別に宮内氏の見解の是非を述べるつもりはない。ただ、正直に言えば、これは生きていくのが相当にしんどそうな社会である。生き馬の目を抜く競争を一生を通じて繰り広げるというのは、やはり多くの人にとってかなり厳しい条件になるだろう。なにせ、「鉛筆の芯」になれなければ、まともに住宅ローンすら組めないのだ。

 そして、子どもを作るということは、自分がそうした競争を生き抜くだけではなく、自分の子どもにもそうした競争を生き抜くためのスキルを授けねばならないということを意味する。そこで、小さいうちから子どもを塾にやり、習い事をさせ、進学校に放り込んで競争社会でのサバイバル技術を身につけさせていくわけだ。そうそう、「人間力」も身につけさせないと。

 でも、競争でぎちぎちのそんな社会で他人を蹴落としながら生きていくというのは、本当に幸せなことなんだろうか。自分自身が耐えざるを得ないのはしょうがないだろう。もうこの世に生を受けてしまっているのだから。たとえ自殺者が8年連続で3万人を超えようとも、殆どの人は自らの生を全うすべく懸命に生きている。

 けれども、自分の子どももまたそういう社会で生きていかねばならないとするならば、「最初から産まないほうがまし」という価値判断は生じないだろうか?

 長くなったので最後にまとめると、蔓延する日本社会に対するペシミズム、上がる一方の子育てのハードル、生きていくのが厳しそうな競争社会の推進。どれをとっても、子どもを産もうとするインセンティブを引き下げるものばかりである。というか、こういう状況で合計特殊出産率が大きく上昇したとすれば、そのほうが不思議である。

 少子化という現象は、こうした風潮に直面させられた若年層の、階級闘争やストライキなどよりも遥かにラディカルで破壊的な復讐なのかもしれないと思う今日このごろである。というか、誰かどうにかしてください(涙)。

追記:
 少子化といえば、シンガポールや韓国でも深刻化しているそうだが、このエントリで述べたような意味からすれば、どっちも非常に「子育てのハードル」が高そうな国である。

 シンガポールの街頭でのモラルが非常に厳しいことは有名だし、教育制度も子どもが小さいうちから選抜が始まる厳しいものだそうな。韓国でも受験競争の厳しさは日本以上で、母親も子どもの受験を必死で応援するみたいだ。

 そういうモラルや競争に子どもを巻き込むのはしんどいと思ってしまう感覚は、国境を越えて共通しているのかもしれない。

  by seutaro | 2006-06-08 23:08 | 政治・社会

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