<メディア>大衆(マス)の底力
さて、今日は前回の訂正から。
前回のエントリで、「チャンネルを適当にザッピングして、面白そうなものを見るというのがテレビ視聴」と書いたのだが、これは少々言い過ぎたようだ。というのも、藤竹暁編『図説 日本のマス・メディア』によれば、全体としてはまだまだ特定の番組を視聴することを目的としてテレビを見る人のほうが多数派なのだそうな。
ただし、ザッピングによって適当にテレビを見る人は数年前の調査に比べて明らかに増加しており、特に若い層でその傾向が顕著である。このことからも、特定の情報コンテンツを入手するという目的ばかりでなく、単なる時間潰しの手段としてのテレビ視聴という性格は強まりこそすれ、弱まってないことがわかる。
そして、そのような時間潰しの手段としては、現在のテレビ番組がそれなりに良く出来ていることは否定できない。無論、前回のエントリで挙げたような「情報強者」にすれば下らない番組のオンパレードということになるのかもしれないが、そういう「センスある」人びとが作った番組が多くの人に受けるかといえば、その可能性は限りなく低いように思う。
実際、多くの層に受ける番組を作ることができる人材というのは、放送局およびその傘下にある制作会社に集中しているのが現状である。しかも、面白いコンテンツを作り続けるためには、それなり資本が必要となる。素人がいきなり入り込んでいったところでどうしようもないのが現状であろう。
このようなことを言うと、「最近ではネット発のコンテンツが多くの人びとに受けているではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、たとえば「電車男」にしても、ストーリーだけを見ればただの凡庸な恋愛話にすぎない。それを万人受けするフォーマットに変換して、ヒット作に仕立て上げることができるのは、プロの手を経ているからに他ならない。付け加えると、いくらネット上で人気のコンテンツであっても、それがマス・メディアによって大きく取り上げられない限り、それはどこまでいってもマイナーなコンテンツに過ぎないのだ。
以上のように、既存の放送番組というのはそれなりに良く出来ており、それらが急速に姿を消すということはちょっと考えにくい。特に人気番組ともなれば、そのコンテンツの魅力ばかりでなく、それが多くの人によって視聴されているという理由によって、さらなる求心力を発揮することができる。つまり、周囲の話題に乗り遅れないようにするためといった社交的な要因に基づく視聴が行われるようになるのである。こうした一種の集団的圧力に基づくテレビ視聴は、集団内での濃厚なコミュニケーションが重視される日本社会では、より頻繁に行われる可能性がある。
このように大衆(マス)によるメディア消費というのは決して侮ることはできないのだが、「情報強者」の皆さんはこのあたりを妙に否定したがるのが面白いところだ。ただし、均質的な大衆が解体し、より多様な価値観や志向性をもった存在へと生まれ変わるといった話は、実は結構以前から存在している。1970年代以降の「脱産業社会論」や「情報化社会論」といった学問の系譜ではその手の話が盛んに語られたし、博報堂の生活総合研究所が大衆よりも多様な価値観やライフスタイルを有する人びとを「分衆」と読んだのは1985年のことだ。これらの議論では、発達する情報機器を通じて、人びとはより多様な情報に接するようになり、多様性に満ちた文化を育んでいく・・・といったことが語られた。こうした議論と、「インターネットによりマス・メディアが崩壊する」といった議論との共通点を見つけることは難しくない。
けれども、ここで紹介したいのが、昔、サイエンスライターの鹿野司さんの「オールザット・ウルトラ科学」で紹介されていた「原田知世のファンであることがいかに大変なことか」という議論である。うろ覚えで申し訳ないのだが、当時、人気のあったアイドル(?)原田知世のファンを本気でやるためには、彼女の写真やグッズ、雑誌記事の収集から、出演した映画の小道具の入手、果ては映画にエキストラとして出演することなど、山のようになすべきことがあり、それ以外のアイドルに手を出すことなど不可能であったのだという。
それに対し、時代をちょっと遡れば、人は同時に山口百恵と桜田淳子と森昌子のファンであることが出来た。つまり、ひとりのアイドルについて入手できる情報量が限られているがゆえに、より多くのアイドルの情報を集めることが出来たのだ。それに対し、情報量が増えるに従って、人は自らのエネルギーをより特化したトピックに向けざるをえなくなる(=オタク化する)。
これだけ聞けば、先に挙げた情報化社会論の亜種のような議論だと思われるかもしれない。しかし、鹿野さんの話が面白いのは、そうした専門分化が進むほど、むしろ大ヒット作が出やすくなるという指摘を行っている点である。つまり、人は狭い殻に閉じこもることを恐れるがゆえに、自分の趣味を追及する一方で、とりあえず世の中で流行っていそうなものをチェックしておこうという気持ちになるというのだ。
この考え方にすごくぴったり当てはまるのが、戦後日本のミリオンセラー・リストである。このリストから、1990年以降、日本ではミリオン・セラーが頻出していることがわかるだろう。(余談だが、箱根には新潮社が『バカの壁』の利益により建設した保養所、通称「バカハウス」が存在するのだという)。ここには、「よく売れてるみたいだから、とりあえず押さえておこう」的メンタリティが強く作用しているのを見ることができる。
まとめれば、価値の多様化とマス・メディアのコンテンツに対するニーズというのは必ずしも背反しないのであり、大多数の人びとが視聴するコンテンツへの欲求というものは今後もそう簡単には消えてなくならないだろう。従って、マス・メディアが急速に規模を縮小し、みんなが個々の好みに合わせたコンテンツをばらばらに視聴するといった時代は、少なくとも当分はやって来ないように思う。
しかし、それでは放送局は今後も絶対に安泰かといえば、必ずしもそうとは言えない。何というか泣き所というのはやはり存在しているのであり、次のエントリではそのあたりについて触れてみたいと思う。
前回のエントリで、「チャンネルを適当にザッピングして、面白そうなものを見るというのがテレビ視聴」と書いたのだが、これは少々言い過ぎたようだ。というのも、藤竹暁編『図説 日本のマス・メディア』によれば、全体としてはまだまだ特定の番組を視聴することを目的としてテレビを見る人のほうが多数派なのだそうな。
ただし、ザッピングによって適当にテレビを見る人は数年前の調査に比べて明らかに増加しており、特に若い層でその傾向が顕著である。このことからも、特定の情報コンテンツを入手するという目的ばかりでなく、単なる時間潰しの手段としてのテレビ視聴という性格は強まりこそすれ、弱まってないことがわかる。
そして、そのような時間潰しの手段としては、現在のテレビ番組がそれなりに良く出来ていることは否定できない。無論、前回のエントリで挙げたような「情報強者」にすれば下らない番組のオンパレードということになるのかもしれないが、そういう「センスある」人びとが作った番組が多くの人に受けるかといえば、その可能性は限りなく低いように思う。
実際、多くの層に受ける番組を作ることができる人材というのは、放送局およびその傘下にある制作会社に集中しているのが現状である。しかも、面白いコンテンツを作り続けるためには、それなり資本が必要となる。素人がいきなり入り込んでいったところでどうしようもないのが現状であろう。
このようなことを言うと、「最近ではネット発のコンテンツが多くの人びとに受けているではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、たとえば「電車男」にしても、ストーリーだけを見ればただの凡庸な恋愛話にすぎない。それを万人受けするフォーマットに変換して、ヒット作に仕立て上げることができるのは、プロの手を経ているからに他ならない。付け加えると、いくらネット上で人気のコンテンツであっても、それがマス・メディアによって大きく取り上げられない限り、それはどこまでいってもマイナーなコンテンツに過ぎないのだ。
以上のように、既存の放送番組というのはそれなりに良く出来ており、それらが急速に姿を消すということはちょっと考えにくい。特に人気番組ともなれば、そのコンテンツの魅力ばかりでなく、それが多くの人によって視聴されているという理由によって、さらなる求心力を発揮することができる。つまり、周囲の話題に乗り遅れないようにするためといった社交的な要因に基づく視聴が行われるようになるのである。こうした一種の集団的圧力に基づくテレビ視聴は、集団内での濃厚なコミュニケーションが重視される日本社会では、より頻繁に行われる可能性がある。
このように大衆(マス)によるメディア消費というのは決して侮ることはできないのだが、「情報強者」の皆さんはこのあたりを妙に否定したがるのが面白いところだ。ただし、均質的な大衆が解体し、より多様な価値観や志向性をもった存在へと生まれ変わるといった話は、実は結構以前から存在している。1970年代以降の「脱産業社会論」や「情報化社会論」といった学問の系譜ではその手の話が盛んに語られたし、博報堂の生活総合研究所が大衆よりも多様な価値観やライフスタイルを有する人びとを「分衆」と読んだのは1985年のことだ。これらの議論では、発達する情報機器を通じて、人びとはより多様な情報に接するようになり、多様性に満ちた文化を育んでいく・・・といったことが語られた。こうした議論と、「インターネットによりマス・メディアが崩壊する」といった議論との共通点を見つけることは難しくない。
けれども、ここで紹介したいのが、昔、サイエンスライターの鹿野司さんの「オールザット・ウルトラ科学」で紹介されていた「原田知世のファンであることがいかに大変なことか」という議論である。うろ覚えで申し訳ないのだが、当時、人気のあったアイドル(?)原田知世のファンを本気でやるためには、彼女の写真やグッズ、雑誌記事の収集から、出演した映画の小道具の入手、果ては映画にエキストラとして出演することなど、山のようになすべきことがあり、それ以外のアイドルに手を出すことなど不可能であったのだという。
それに対し、時代をちょっと遡れば、人は同時に山口百恵と桜田淳子と森昌子のファンであることが出来た。つまり、ひとりのアイドルについて入手できる情報量が限られているがゆえに、より多くのアイドルの情報を集めることが出来たのだ。それに対し、情報量が増えるに従って、人は自らのエネルギーをより特化したトピックに向けざるをえなくなる(=オタク化する)。
これだけ聞けば、先に挙げた情報化社会論の亜種のような議論だと思われるかもしれない。しかし、鹿野さんの話が面白いのは、そうした専門分化が進むほど、むしろ大ヒット作が出やすくなるという指摘を行っている点である。つまり、人は狭い殻に閉じこもることを恐れるがゆえに、自分の趣味を追及する一方で、とりあえず世の中で流行っていそうなものをチェックしておこうという気持ちになるというのだ。
この考え方にすごくぴったり当てはまるのが、戦後日本のミリオンセラー・リストである。このリストから、1990年以降、日本ではミリオン・セラーが頻出していることがわかるだろう。(余談だが、箱根には新潮社が『バカの壁』の利益により建設した保養所、通称「バカハウス」が存在するのだという)。ここには、「よく売れてるみたいだから、とりあえず押さえておこう」的メンタリティが強く作用しているのを見ることができる。
戦後のミリオンセラー
1945 『日米会話手帳』 誠文堂新光社編 誠文堂新光社
1956 『人間の条件』(1~6) 五味川純平 三一書房
1960 『性生活の知恵』 謝国権 池田書店
1961 『英語に強くなる本』〈カッパブックス〉 岩田一男 光文社
1962 『徳川家康』(1~18) 山岡荘八 講談社
1964 『愛と死をみつめて』 河野実・大島みち子 大和書房
1965 『人間革命』(1) 池田大作 聖教新聞社
1967 『頭の体操Ⅰ』〈カッパブックス〉 多湖輝 光文社
1970 『冠婚葬祭入門』〈カッパホームズ〉 塩月弥栄子 光文社
〃 『誰のために愛するか』 曾野綾子 青春出版社
1971 『日本人とユダヤ人』 ベンダサン 山本書店
1972 『恍惚の人』 有吉佐和子 新潮社
〃 『HOW TO SEX』 奈良林祥 KKベストセラー
1973 『日本沈没』(上・下)〈カッパノベルズ〉 小松左京 光文社
〃 『にんにく健康法』 渡辺正 光文社
1974 『ノストラダムスの大予言』 五島勉 祥伝社
〃 『かもめのジョナサン』 バック 新潮社
1975 『播磨灘物語』(上・中・下) 司馬遼太郎 講談社
〃 『複合汚染』(上・下) 有吉佐和子 新潮社
1976 『限りなく透明に近いブルー』 村上龍 講談社
1977 『人間の証明』〈角川文庫〉 森村誠一 角川書店
1979 『算名占星学入門』〈プレイブックス〉 和泉宗章 青春出版社
〃 『天中殺入門』 和泉宗章 青春出版社
1980 『蒼い時』 山口百恵 集英社
1981 『窓ぎわのトットちゃん』 黒柳徹子 講談社
1982 『プロ野球を10倍楽しく見る方法』 江本孟紀 KKベストセラー
〃 『悪魔の飽食』〈カッパノベルズ〉 森村誠一 光文社
〃 『気くばりのすすめ』 鈴木健二 講談社
〃 『積木くずし』 穂積隆信 桐原書店
1983 『和田アキ子だ文句あっか!』 和田アキ子 日本文芸社
1986 『スーパーマリオブラザーズ完全攻略本』ファミリーコンピュータマガジン編集部編 徳間書店
1987 『サラダ記念日』 俵万智 河出書房新社
〃 『塀の中の懲りない面々』 安部譲二 文藝春秋
『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』 K・ウォード 新潮社
1988 『ノルウェイの森』(上・下) 村上春樹 講談社
〃 『こんなにヤセていいかしら』 川津裕介 青春出版社
〃 『ゲームの達人』(上・下) S・シェルダン アカデミー出版サービス
1989 『TUGUMI』 吉本ばなな 中央公論社
〃 『キッチン』 吉本ばなな 福武書店
〃 『下天は夢か』(1~4) 津本陽 日本経済新聞社
〃 『時間の砂』(上・下) S・シェルダン アカデミー出版サービス
〃 『一杯のかけそば』 栗良平 栗っ子の会
1990 『愛される理由』 二谷友里恵 朝日新聞社
〃 『孔子』 井上靖 新潮社
1991 『Santa Fe 宮沢りえ写真集』 篠山紀信撮影 朝日出版社
〃 『もものかんづめ』 さくらももこ 集英社
〃 『真夜中は別の顔』(上・下) S・シェルダン アカデミー出版サービス
1992 『さるのこしかけ』 さくらももこ 集英社
1993 『マディソン郡の橋』 R・J・ウォラー 文藝春秋
〃 『磯野家の謎』 東京サザエさん学会 飛鳥新社
〃 『たいのおかしら』 さくらももこ 集英社
〃 『ワイルド・スワン』(上・下) ユン・チアン 講談社
1994 『大往生』〈岩波新書〉 永六輔 岩波書店
〃 『遺書』 松本人志 朝日新聞社
1995 『松本』 松本人志 朝日新聞社
〃 『ソフイーの世界』 ヨースタイン・ゴルデル 日本放送出版協会
〃 『「超」勉強法』 野口悠紀雄 講談社
1996 『脳内革命』(1・2) 春山茂雄 サンマーク出版
〃 『猿岩石日記』(1・2) 猿岩石 日本テレビ放送網
〃 『神々の指紋』(上・下) グラハム・ハンコック 翔泳社
〃 『弟』 石原慎太郎 幻冬舎
〃 『創世の守護神』(上・下) グラハム・ハンコック 翔泳社
1997 『失楽園』(上・下) 渡辺淳一 講談社
〃 『少年H』(上・下) 妹尾河童 講談社
〃 『鉄道員(ぽっぽや)』 浅田次郎 集英社
1998 『大河の一滴』 五木寛之 幻冬舎
〃 『幸福の革命』 大川隆法 幸福の科学出版
〃 『他人をほめる人、けなす人』 F・アルベローニ 草思社
〃 『小さいことにくよくよするな!』 R・カールソン サンマーク出版
1999 『五体不満足』 乙武洋匡 講談社
〃 『日本語練習帳』 大野晋 岩波書店
〃 『繁栄の法』 大川隆法 幸福の科学出版
〃 『沈まぬ太陽』(1~5) 山崎豊子 新潮社
2000 『ハリーポッターと賢者の石』 J.K.ローリング 静山社
〃 『ハリーポッターと秘密の部屋』 J.K.ローリング 静山社
〃 『経済のニュースが面白いほどわかる本・日本経済編』細野真宏 中経出版
〃 『太陽の法』 大川隆法 幸福の科学出版
〃 『「捨てる!」技術』 辰巳渚 宝島社
〃 『話を聞かない男、地図が読めない女』 アラン・ピーズ 主婦の友社
〃 『プラトニック・セックス』 飯島愛 小学舘
〃 『だから、あなたも生きぬいて』 太平光代 講談社
まとめれば、価値の多様化とマス・メディアのコンテンツに対するニーズというのは必ずしも背反しないのであり、大多数の人びとが視聴するコンテンツへの欲求というものは今後もそう簡単には消えてなくならないだろう。従って、マス・メディアが急速に規模を縮小し、みんなが個々の好みに合わせたコンテンツをばらばらに視聴するといった時代は、少なくとも当分はやって来ないように思う。
しかし、それでは放送局は今後も絶対に安泰かといえば、必ずしもそうとは言えない。何というか泣き所というのはやはり存在しているのであり、次のエントリではそのあたりについて触れてみたいと思う。
▲ by seutaro | 2006-02-14 01:54 | メディア