2006年 02月 26日 ( 1 )

 

<映画>ヒトラー 最後の12日間

b0038577_2555861.jpg というわけで、『ホラーハウス社会』の続き・・・と思っていたのだが、先に『ヒトラー 最後の12日間」について書いておきたいと思う。
 ヒトラーの秘書を務め、戦後まで生き残った女性の証言をもとに、ヒトラーが自殺を遂げるまでの12日間を描いた作品。非常に面白く、かなりお薦めな作品である。ベルリンの陥落を直前に、混乱する指揮系統、司令部にはびこる狂気、軍紀の乱れなどが見事に描きだされており、末期症状に陥った組織の姿を克明に伝えてくれる。
 で、この映画で僕が一番興味深かったのは、ヒトラーの考え方である。彼は犠牲になる市民や兵士への同情をしばしば否定する。結局、彼らが死ぬのは、さらに言えばドイツが敗北しつつあるのは、彼らが「弱かった」からなのであり、弱者が滅ぼされるのは歴史の摂理なのだという。従って、弱者への同情は、そうした歴史の摂理からの逸脱なのであり、許されるべきことではない、ということになる。
 このようなヒトラーの発想に関しては、時に通常のナショナリズムとの違いが語られることがある。たとえば、アンソニー・スミスは次のように述べる。(『20世紀のナショナリズム』、p.126)

完全に生育したナチズムは、世界は人種によって階層的に分割されており、争いから逃れることができないまま、血と権力の上下関係に置かれている、と見ている。ナショナリズムにとっては、歴史、市民権、そして民族的郷土は、決定的に重要な諸価値である。ナチズムにとっては、これらの諸価値は、永遠の戦争の中で融合させられる、遺伝的な体格と国家権力とに比べれば、さほど重要なものではない。

僕はこのようなスミスによるナショナリズムとナチズムとの区分には必ずしも同意しない。たとえ、ナチズムに様々な独自の要素があったにせよ、それがナショナリズムを土壌として生まれてきたことは否定しえないと考えるからだ。とはいえ、この指摘で興味深い点は、ナチズムは結局のところ、現実にドイツに暮らす一般の国民にはさほど関心がなく、戦争によって鍛え上げられる理想の「アーリア人種」を重要視していたという点である。無論、このような発想に対しては、ナチスの内部でも反発があり、『ヒトラー 最後の12日間』でも無益に死んでいく市民や兵士に心を痛める将校が何人か登場する。
 ともあれ、このようなナチズムの発想は、言わば一面的な恋愛感情に似ていると思う。恋愛というものには多かれ少なかれ相手に対する幻想が混じりこんでおり、言ってしまえば相手をしばしば「理想化」してしまう。しかし、実際に付き合いだすと、その幻想が徐々に崩れ、相手の本当の姿が見えてくる・・・というわけだ。ナチズムというのは、同じように「ドイツ国民」「アーリア人種」という幻想に耽溺し、最後まで幻想と現実とのギャップを埋めることができなかった思想だと思われる*1。

*1なお、「現実」という言葉は非常にやっかいであり、僕も以前のエントリでその難しさについて論じたことがあるが、ここではあえて考えないことにする。

 しかし、こうした幻想と現実との間に大きなギャップを生じさせるのは、別にナチズムに限った話ではない。ナショナリストはしばしば「神話」、「伝統」、「歴史」といった形態において、自分たちの「あるべき姿」を描き出そうとする。そして、その「あるべき姿」から逸脱していると見られる人びとが往々にして糾弾の対象となるのである。
 僕が「新しい歴史教科書を作る会」などの運動を好きになれないのは、結局のところ、彼らの運動にこうした傾向があることを感じてしまうからだ。内田樹が『ためらいの倫理学』で指摘するように、他の歴史教科書を「自虐史観」と言って批判する彼らは、現在の日本社会のあり方については非常に「自虐的」である。戦後民主主義によってすっかり骨抜きにされ腐敗してしまった現在の日本人・・・それに対して、先人は何と勇敢で偉大な人びとであっただろうか、という語りがしばしば行われることになる。
 そこから、次のような疑念が沸いてくることになる。それは、結局、彼ら「愛国者」たちが愛しているのは、現実に日本列島に暮らす人びとなのではなく、幻想のなかの理想化された「日本人」なのではないか、ということだ。彼らは確かに、歴史上の偉人たちを愛しているだろう。けれども、彼らは同じように、コンビニの前でたむろする若者や公園で暮らすホームレス、あるいは左翼的な言辞を吐く言論機関や文化人をも愛していると言えるのだろうか?
 そうした「偉人」たちと「非国民」とを一緒にするな、と思われる人もいるかもしれない。けれども、本当に国や国民を愛しているというのであれば、それは決してごく一部の突出した偉人だけを愛しているということにはならないはずだ。現実の日本社会には、富める者、貧しき者、賢明な者、愚鈍な者、善き者、悪しき者など多様な人びとが暮らしている。本当に国を愛し、それに何らかの貢献をしたいと思うのであれば、そうした多様な人びとの存在を受け入れ、できるだけ多くの人びとの幸福を願うのが筋ではないだろうか。先ほどの恋愛の比喩を再び用いれば、たとえ相手に対する幻想が崩れたとしても、その幻想を超えて相手のありのままを受け入れることこそが成熟した愛の形だとは言えないだろうか。(書いてて照れるな、これ(笑))
 偉人たちの功績で塗り固められた歴史しか学ばない者は、偉人たちとの一体化を果たすことで自分のナルシズムを満足させることはできるかもしれない。けれども、貧しき者、愚かな者、悪しき者を自分たちと同じカテゴリーに入れて考えることができない可能性が高い。自称「愛国者」たちが、「非国民」だの「国賊」だのといった言葉が大好きなのはそのためだ。ロバート・マートンの『社会理論と社会構造』では、アインシュタインの次のような言葉が引用されている(p.262)。

もしわたくしの相対性理論が真理であることが証明されたならば、ドイツはわたくしをドイツ人だと主張し、フランスは、わたくしが一世界市民であることを宣言するであろう。もしわたくしの理論が誤っていることが分かれば、フランスはわたくしがドイツ人であると言い、ドイツは、わたくしがユダヤ人であることを宣言するであろう。

 結局、自分たちの自画像に合致しない人びとや、その自画像に賛同してくれない人びとを「愛」の対象に入れないというのは、幻想の「国民」を愛するばかりで、多種多様な人びとによって構成される現実の国民から目を背けることでしかない。しかし、少なくとも、国や社会を引っ張っていこうとする者であれば、幻想から現実を糾弾するようなことはすべきでない。ヒトラーはこの点において、指導者としての資格を決定的に欠いていたと言える。
 さて、現代日本の政治家諸君は、そうした現実の国民をありのままに受け入れる気概を持っているだろうか。
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  by seutaro | 2006-02-26 04:02 | 映画

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