2006年 02月 27日 ( 1 )

 

<読書>芹沢一也『ホラーハウス社会』 2

 さて、中断してしまった、『ホラーハウス社会』についての続きである。
 前のエントリで述べたように、日本における犯罪、特に少年犯罪に対する対応は、極めて矯正的な色彩が強かった。少年犯罪を引き起こした少年の心理を理解し、その問題点を除去することに非常な力点が置かれてきたのである。
 ところが、この教育的犯罪観からすっぽりと抜け落ちているものがある。それが、犯罪の「被害者」の存在である。とりわけ少年事件においては、少年の心理が問題とされたがゆえに、犯罪の事実関係の解明はそれほど熱心に行われておらず、事件に関する情報はプライバシー上の観点から外部には伝えられなかった。
 しかし、山形マット死事件を契機に、被害者たちは声を上げ始める。自分たちの子供がなぜ死なねばならなかったのかを解明し、それを開示するよう求める声が次第に強まっていった。そして、メディアはそうした被害者の声を積極的に取り上げるようになり、神戸の連続児童殺傷事件などのショッキングな事件の影響もあって、やがては少年法の改正へと到ることになったのである。
 このような流れのなかで、加害者を理解し、矯正しようとするそれまでの方針への批判が強まり、加害者への厳罰を求める流れが生じてくることになる。この際、事件をおかした少年や精神障害者をあくまで法的主体として扱い、彼ら、彼女らが起こした事件をきちんと解明し、法的主体としての責任を求めていくという方向性に向かえば、現在とは異なる方向性が生まれることになったと芹沢は論じる。ところが、実際に生じたのは、加害者を法的主体として捉えるのではなく、不気味な「怪物」として捉え、社会から隔離・排除しようとする動きであった。
 そのような潮流を生み出す上で重要な役割を果たしたのが、犯罪精神医学であり、これが加害者の精神や脳の異常を訴えることで、彼ら、彼女らの「不気味さ」をより強く社会に印象づけることになったのである。
 統計的に見れば犯罪が増えていないにもかかわらず、日本社会はそうした不気味な「怪物」の影に怯えるようになった。しかし、そうした「怪物」の存在に対し、人びとはただ怯えているのではなく、ある意味においてそれを楽しむようになっていると芹沢は述べる。ボランティアや地域活動など、街を監視し、犯罪者を寄せ付けない街づくりが様々な形で行われるようになっている。それらの活動は単に義務として行われているのではなく、しばしばレクリエーション的な色彩を帯びることになる。いわば、「怪物」の存在を一種の「娯楽」として楽しむ流れが生まれつつあるというのである。芹沢は、そうした「怪物」の存在を「娯楽」として消費する社会を「ホラーハウス社会」と名づけ、それが治安の維持を名目として抑圧的な社会体制を生み出す危険性を主張している。
 この最後の点において、芹沢の見解は、前のエントリで挙げた河合『安全神話崩壊のパラドックス』と大きな相違を見せることになる。河合は急増しているわけではないものの90年代後半からの犯罪の増加を危惧しており、犯罪が多発する時間帯である「夜」と安全な「昼」との境界を再びはっきり引きなおすこととともに、地域共同体の建て直しや、ガーディアン・エンジェルスのようなNPOの役割への期待を表明している。すなわち、芹沢がより個人主義的な観点から社会の「ホラーハウス化」を危惧しているのに対し、河合は共同体主義の観点から治安問題への取り組みを訴えていると言えるだろう。
 地域ぐるみでの防犯対策を監視社会への第一歩として捉えるべきか、それとも地域共同体の再建として捉えるべきか。僕としては、芹沢の立場に大きな共感を覚えるものの、河合の主張の説得力も認めないわけにはいかず・・・ということで、今回のエントリはとりあえず論点を整理するだけに留めておきたい。
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  by seutaro | 2006-02-27 01:43 | 読書

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